昭和44年03月02日 朝の御理解
御理解 第94節
「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」
私は今朝方、今朝気付かせて頂いたんですけれども、最近昨日も93節を頂きまして、まああのように御理解を頂いたんですけれども、今日もまたその次の94節。もうこの辺は取次者に下さる御理解。今日の御理解でもはっきり、「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」と、信者に不同の扱いをすなと言う様にその、昨日の場合でもやっぱそうでございましたですね。
厳しい取次者に対するまあ警告であり、またはこういう信心にならなければならないというようなことが御理解下さってありますが、それをまあお互い、信者の立場とそしてまたその御理解のこういうふうにも頂けれると。これは先生だけじゃない、信者もここをこういうふうに頂いたら、この御理解が深くなると言った様なふうに頂き、最近私は非常にそれが教師に対する、取次者に対する御理解が多いのです。
今朝から私思うのです、今日もまた94節をこう頂いてです、これは皆に神様が求めてござるのではなくて、これは私、言わば大坪総一郎に神様が求めてござるんだなあと。これはもう皆さんに伝えるのではない。私の心の中に頂かなければならんのだと。頂けば必ず、開けば必ず教師に対する御理解である。これは信者に伝える前に私自身が頂かなければならんのだなと今朝からそれを感じさして頂いたんです、
自分はできとるように思うたり、自分はもうそこを卒業しとるように思うたりしとるところに怠慢があったり、いわゆる慢心が出たりするのですね。これは私自身がここんところをおかげ頂かねばならんとこう思う。これは親の情というか、として子供の中に屑の子があれば、それがかわいいのが神の心じゃとか、親の心だというふうに言われますが。例えば「うるさいと思えど要る子ばかりなり」。これはもう十何年か前に頂いた御理解です、私。「うるさいと思えど要る子ばかりなり」。
まあ同じ子供を5人なら5人、私共のように7人ももっとりますと、7人の中にはね、本当に親の言う、親の言わば痒いところに手が届くように、言うならやってくれる子供もあるかと思うと反対にね、痒いところどころではない、もうそれとは反対の思いをさせて、いわゆる歯がゆい思いをさせる子供もある。そうすると自然その親の思いが、親の言うなら言う言をよう聞く、親の思いに沿うてくれる、それを大事にしようとする。大事にしようとする、いつの間にか大事にしておるわけですね。
ならこれを例えばここのご信者さんの場合の上においてもそれが言えるかも知れません。先生があの信者は大事にされて、私達はもう全々大事にされない。けれどもそのことが大事にする大事にしないと言う事もまた言えないのです、親には親の考えがある。なら子供の場合でもやっぱりそう言う事も言えるんです。この頃からいやこの頃からと言うが、ちょうど善導寺の久保山先生のところのお宅祭りがあった日が私の方の2番目の息子の光昭がまあ一年間、何かいろいろ修行さして頂いた。
まあ言うなら成就の日であった。ですがその何日かしてからでしたでしょうか、神様から光昭にもタバコを、タバコ銭をやることをお許し頂いた。私はもうこの人はもう高校時代からタバコ飲みよった。学校からも随分注意されたりした。やっぱりこれはもうその、まあちょっとした動機がね、タバコ飲んだりしてでそれがもう止められなくなって、と言うてその私にタバコ銭をまあ言いはきらんで、まあこっそりと飲んでおるわけ。まあ皆まあ言うなら吸殻でも拾うて飲みたいわけです。
それは私よう知ってるですね。けれどもまあそれでいい、けれども神様からひとつのそういう修行を終わったからかどうか知らんけどもお許しを頂いたら、その頃からタバコがずっとお供えがあるんです。もう度々あるんです。それで私がタバコを、あのお下がりを持って来てから勝彦と光昭とおったから、私は光昭にやるんです。兄ちゃんはよかとにゃあ、お前はわがよかごつ自分で買うけんで。これ光昭にやろうとこういうね。
いかにもそこにはこう、不同の扱いをしておるのですけれどもね、これを皆さんどんなふうに思われますでしょう。あらさあ兄ちゃんにも一つやったけんお前にも一つやろうと、私がそのまあ光昭なんかは、まあようもひけらしゅうて、よう親の言う言をよう聞きます。もう本当に尻軽くて、もう「はい」っともう「はい」がよかことがですね、だからなら光昭がよい信心しておると言う事は言えんのですよね。
私は今日はこの御神前でテレビで、何とか55号というのがあるでしょうね弱点。お互いね、例えば弱点を持たん者はないでしょうけれども、その弱点があるために親の言うことを聞いておる場合もあるのです。それが人間じゃ分からん、あの子はよう言う言を聞く、ひけらしい、親に優しい。だからむしろ、自分には弱点を持たないと思うておるから、まあある意味合いでは横柄な態度をとったり、言う言を聞かなかったり、いわゆる自信を持っておる、自分の生き方に対して。
そういうふうな場合もあるわけです。はあ親に対して相すまん相すまんと思うておるから、せめてその親の言う事なっと聞かなければとこう、まあ言うなら健気な心ではありますけれども、そういう弱点を持っておるからの場合もある。信者でもそうです。人の真似んできんごたる修行しよるとは、皆そう弱点持ってるとは言えんのですけれどね。自分で悪いことをしておるもんだから、その弱点をカバーするためにごまかすじゃないですよ、それをカバーするためにお許しを頂くために、一生懸命信心しておると。
脇から見ると、はあなかなか手厚い信者じゃというふうに見える、先生から見たら手厚い信者に見えるけれども、神様の目からご覧になったらそうじゃない。むしろ熱心ではない信者の中に、言わば人間としての本当の生き方とでも言うか、なら教祖の御教えに忠実な生き方をしておる人が、なら形も見えない、形には見えないけれども、むしろ歯がゆい思いをさして、まあちっと日参どんしてくりゃいいのに、ひと修行さしてもらやあいいのにと、取次の先生は思うておるかもしれんけれども。
神様はそうではないようでおありになるか分からん、実際は。なら私共の光昭と勝彦を並べて言うてもええ、愛子と安子を並べて言うてもええね、上の子2人は何と言うてもなかなか、私から見ると横柄である、言うことを聞かんのである。愛子となら光昭はまあそれこそ痒いところに手が届くようにやってくれる、だから皆がそうだったら親はさぞよかろうけれどもです、ところがそれでは親自身がおかげを受けられない。
言うこと聞くのがあり、言うこと聞かんのがあって初めてですね、親も本気で信心に取り組まれるし、昨日一昨日の御理解じゃないけれども。例えば子供の中に横柄な、横柄な態度をとったり、親の言うことを聞かぬ子があったり、この人はこんなことじゃあおかげが受けられんと思うたら、その子のために修行をせよと神様が仰るのだから、その子のために修行せよと。ほんなこと只この人ばっかりは可愛そうな人間じゃあある。こう言う事では先々困ろうけれどもとまあ思うただけでですね。
または言う言を聞かんというては、腹を立てたりしておるけれどもですね。けれどもそうじゃない、そういう言う言を聞かん子がおるから、親もその気になって願う事が出来たり、改まる事が出来たりする。その子のために信心を進める。その子のために私が改まりますから、おかげを頂かせて下されと言うて願う。そして後からよくよく考えてみるとです、その子供のことではなくて実際は、私自身の信心を進めて下さろうとする、御神意であることに気付く。
むしろ横柄な態度をとっておるその子供の方がです、まあ言うなら確信を持った生き方というかね、言うなら弱点のない生き方をしておるから、必ず親だからと言うてぺこぺこせんですむようなものであるのかも分からない、だから言う事は聞かん、弱点を持つというのもやっぱありますけどね。けれどもまあ私はそんなふうに思うですね。ですから本当に親の情というものがです、形に現われておるもの。形に現れておるところだけでこれをよい子悪い子と決め付けるわけにはいけん。
信者の中にあっても同じこと。毎日毎日よう日参ができる。お供えがどんどんようできるね。お参りは一週間に一遍くらいしかできん。3日に一遍しかできんけれども、取次者の目から見るとこれだけのよい信心するとじゃけんで、日参したならまあだよかろうごと思う、けれどもその人は案外、そんなら教えに忠実である。この頃私は下田ね、下田教会の小笠原という先生がみえました、一晩どまりで。
そん時に先生ちょうどここの修行生の人達ばかりの会合でしたから、皆御祈念は私がするから修行生の方達は皆、御祈念の時間、もう8時頃行くから、先生にお話でも頂きなさい。先生を囲んで修行者の信心共励会をさしてもろうて、先生のお話を頂きなさいと言うて、豊美にあんたもお話を頂いて来いと言うたら、こう言う言を言う。親先生の御理解だけでさえも守りきらんでおってから他所の先生の話の段じゃなかってこう言うわけですよ(笑)。私はムカッとしましてですね。
けどもようと考えてみるとほんなことそうでもあるともこう思うわけです。私の言う事さえ聞かれんのに、他所の先生の言う言を尚聞かれんちゅうわけです。それをもう少しなら言うとです、何か私のこれ心情とでもいうか、これだけはと言った様なものをあの人はあの人なりに守りぬいておるのかも知れん。話はもうばさらか聞くけれどもいっちょん守らんというのもおるかもしれん。
だから分からんのですね、実際を言うたらまあ言うなら子供の中には、ならいかにも痒いところに手が届くようにやってくれておるのがありますけれども、それはいわゆる自分に弱点を持っておるから親を誤魔化しよるとかも分からん、まあなかなか実際のその姿というものは形では分からない。今日は94節を頂いて、今日私は気付かせて頂いたということは、最近どうも取次者に対する御理解ばっかりを頂く。
けれども取次者といい、信者といい、やっぱり金光大神の氏子に間違いないのだから、それをこういうふうにも頂けるとしていつも聞いて頂いておるんですけれども、これはおかしいなあ、これだけの御理解があるのに、必ず最後んにきのその先生に対する御理解ばっかりじゃが、合楽の信者さん方は信心の程度が高いから、これは取次者としてのおかげを下さるために、取次者と対等に、まあ信心の深いところを教えて下さるんであろうかと思うて、今日まで説いてきたけれど。
これは信者さん方じゃなかったんじゃ、これはもう先生に対する取次者に対する、お前に対する神の警告であり、神がこうあってくれあぁあってくれと言うておるのだというふうに、今日気づかせて頂いて、まあ恥ずかしい限りである。信者に伝えよる段かおまえ自身がまず頂かなければ、と言う様な事をここで今日は94節で分からして、改め昨日は93節、今日は94節と教師に対する、取次者に対する御理解を頂いて、今日まあお粗末ながら気付かせて頂いた、まあ気付かせて頂いてです。
私はその94節の御理解の真意は別としましてから、今日私御神前で頂いた弱点ということ。お互いの弱点というものは自分で言うより他には知らん。ただ今も申しますように自分の子供ですら具合ようやっていきよるけんで、言うことよう聞くけんでこれをよい子だと思うておるけれども、その子はむしろ言う事聞かん子よりも弱点を持っておるから、親の前はつくろっておるのかも分からんと言う事がです、分からして頂くと、これは子供なら子供に対する見方。
信者に対する見方というものをこれは本当のところを分からなければいけんなあ、分からしてもらわんならんなあとこう思います、そこでまあ弱点と言う事が出たから、ひとつ今日はそこんところをです例えて言うと、まあ弱点て言う事は皆さん知ってるでしょう、皆ね、どう言う事かもう他んことには強かばってんこの人はお金だけには弱かという人がありますよ。もう他んこつならもう本当に素晴らしい、言うなら信心を現していけるけれどもね、もうお金がなくなるともう人相まで変わってくる。
心の中が懐の中が淋しゅうなると、もういわゆる信心でないことを平気で言うたりしたりするようになる。もうこれだけの信心ができておるのに、お金だけにはこの人弱いなあというのはいわゆるお金のね、お金には弱いそれが弱点ちゅう、甘い物ならもう好きでたまらんという人がある。もう私はもう甘い物には弱いと自分で言うでしょう、ですからもうあっちになんか無理でも頼みに行く時には、ようかんのひと箱も持って行くとすぐ聞いて、そのようかんに目がくらんでしまうわけなんですよね。
反対に辛い人の場合でもあります。この人は絶対間違う人じゃないけれども、一杯飲まされると弱い人があるあの人は女に弱い、そういうものがですそれぞれにあるのです。それを弱点。皆さんはどうでしょうか、自分は何に弱いかひとつ一遍思うてみにゃいけませんね。その弱点を突かれるから痛い思いをしなければならん。また自分の弱点をそれこそ私の方の光昭じゃないけれども、自分に弱点を持っておるから、これは神様のおかげを頂かなければ、自分は信心でもしなければできないと言う事から。
修行さして頂くという、まあ健気なと言う事でもあるけれども、一面にはです罪滅ぼしに一生懸命やっておると言う事にもなる。罪滅ぼし的いわゆる信心では本当のおかげにならん、その弱点なら弱点というものが取り除かれて、その弱点が強いことになって、それでは迷わん、そこんところにお互い取り組まして頂いてです、改まっていかなければならない。自分の弱点を知ると。
自分に弱点があると、本当におかしなことになるのです、やっぱり自分の弱点を弱点として気付かせて頂いて、その弱点をいよいよ弱いものではない、そこんところをむしろ強うしていくところの信心。そういうまたは修行、そして例えば日々の例えて信心で言うならお参りもでき、お供えも出来た時に私はそれがいわゆる手厚い信者じゃと言う事になるのじゃないだろうか、
子供の中に例えて言うならばです、そういう弱点を持つ弱点に本気で取り組んで、その弱点をカバーしていくだけの信心をです、言うなら弱かったところが強うなるところのおかげを頂いて、それでいて親の言う事に痒いとこに手の届くような生き方になった時に、それは本当の親孝行な子供だと言う事が言えると思うのです。ですから実を言うたら親からは分からん。親の目から分からん。取次ぎ先生の目からは分からん。どれがよい信者やら、どうやら分からん。
自分の子供でも言う言を聞く、言うことを聞くから優しいからだけでは決められない、そこで今日はその反対のです、なら自分にはそれが分かっているのであるから、手厚い信者を目指さして頂く意味合いにおいてでもです、弱点のない私。それでいて信心で言うならばお日参りもできる、御用もできるという信心。そこに本当の力というか、いわゆる手厚い信者として見て下さる。
いわゆる今日は私は取次者では分らん親では分からんと言うたけれども、問題は神様は分かってござるから、分かってござるから私はそういう生き方の人の上に神様のお喜びというか、神様が力を与えて下さることはもちろんです。いわゆる手厚い信者とこう言う事これはだから、私共からは信心の手厚いのが真の信者と仰るが、本当に真の信者を目指さしてもらうためには、まず私共の弱点を知り、その弱点を取り除いて行く事に本気で努め、それを神様からご覧になると手厚い信者と言う事になってくる。
この手厚い信者がお徳の受けないはずはない、おかげの受けないはずがないことに皆さんなるんですね。今日は私は私自身ね、いわゆるいつも教師に対する御理解を頂きながら、それを皆さんに押し付けるように、まあお話をしてきたことが恥ずかしいけれども、他の者はいらん、大坪総一郎、お前だけが分かりゃええんじゃと言うて、わざわざいつもどうしてこげん(笑)。
難しくいわゆる取次者に対する御理解ばっかり下さるだろうかと思うておったけれども、これは本当に取次者、私に下さる御神意であったことを悟らしてもろうて、私自身本気でその弱点に取り組まなければいけないなと、そしてその弱点がなくなって、むしろそこんところが強うなるおかげを頂いた時に、私はいよいよお徳を受ける時である、力を受ける時である、神様のご信用をいよいよ一段と受ける時であるというふうに思うのでございます。
どうぞ。